「水つくり」開発ストーリー
水物語その31 森は海の恋人
かつて瑞穂の国と呼ばれ、
日本中のどこの港で水を汲んでも、
航海中に水が腐らなかったと伝えられる
「水の国」のくにであった日本。
それがどうして
こんな腐る水が多い列島になったのか?
私はドキュメンタリー映画の作家時代に
その原因を調べたことがあります。
良い水を育む自然林の大規模破壊は
明治17年1884年足尾鉱山が始めです。
銅鉱石の精錬に使う燃料に周辺の木々を
根こそぎ伐採しただけでなく、
銅の精錬で出る毒を含んだ煙を
周辺の山々にまき散らし、
山の土を含めて全ての生き物を死滅させ、
谷中村を含む7つの村を
消滅させてしまいました。
そして明治維新と同時に始まった
北海道の併合による開拓事業。
豊かな森が
大規模かつ長期的な開拓事業によって、
平地のところはことごとく
畑にされてしまいました。
明治初期から三つの戦争を経て、
石炭から石油へのエネルギー転換するまでの
約100年の間に、
炭鉱で使う柱材の松の植林と
建築用木材としての杉とヒノキの植林が
国家予算をつぎ込んで日本中の隅々に広がり、
水を育む広葉樹林の30%が失われて
腐葉土が出来なくなったと言われています。
そして、
水ができる自然の仕組みに
決定的とも言える打撃をもたらしたのは、
太平洋戦争敗戦後の
アメリカの政策と日本の化学産業の発展です。
戦後アメリカ占領軍は、
全国の農家に広がっていた肥ツボと
たい肥つくりを禁止して
硫安などの化学肥料と
DDTやBHCなどの化学農薬の使用を奨励し、
国産も進みました。
農薬の最初は有機水銀系農薬。
しかしこれは水俣病の原因と考えられ
禁止になりました。
次に有機塩素系農薬。
これも有害が証明されて禁止になります。
そして今は
有機燐系農薬がメインとなって
使用されています。
化学肥料と農薬が使われた初期は、
土が生きていましたから
ものすごく効果があったのだと思います。
農業者は、
こんなに効くのか、
こんなに楽なのか、
こんなに採れるのかと
大喜びで使用していたのでしょう。
しかし、年数を経るうちに
土の微生物は減少し、
それに従って
元の農薬も効かなくなってきます。
すると、さらに強い農薬が開発されて
使用量も増え、
これまで良い水を作って来た田んぼや
畑の微生物もさらに減少して・・・
ついに良い水ができるしくみが
機能しなくなってきていると考えています。
さらに追い打ちをかけたのが
自動車の普及による大気汚染です。
自動車の排気ガスを含む酸性雨によって、
日本の山で腐葉土が1ミリ出来るのに
100年掛かるのに、1回の酸性雨で1ミリ以上が消滅するとの研究も発表されています。
その他にも、外材の輸入による
国内林業の衰退に加えて
中国からの汚染物質の飛来による
自然林の疲弊や、
数々の原因が重なっての
全国的に広がった山荒れと海焼け・・・。
かつて「水の国」と呼ばれた日本は、
近代化の影で、
その礎となるシステムが崩れてきている。
私はそのように感じています。
私たちの国の最も古い文献
「古事記」に記されている
「魚付林」という言葉は
「山で出来る土が海の魚を呼び寄せる」という
「自然認識」を示したものと解されています。
その「自然認識」は
日本民族の深奥に脈々と引き継がれており、
「森は海の恋人」と黙々と田畑を守り、
木々を植えて森を作り、
海を蘇らせている人たちが居ました。
そうした精神を受け継いで、
襟裳岬・東北東海岸と山・瀬戸海と山陽の森で
漁師と山師と市民が
粘り強く活動している事実や、
自然農を実践する農業者が
全国にいることを知りました。
私は30才から50才までに201本の短編映画を
作っていますが、
その取材ですべての県を訪れています。
その際、どこでも必ず目にするのが
放置された杉林です。
枝打ちされず下草も生えっぱなし倒れた木も
そのままで痩せた杉木が立ち並ぶ林、
そして、大雨の時に大崩れする報道、
広葉樹の根は広がりますが、
杉の根は真っすぐで崩れやすい、
100年間の国の補助金で
狭い私有地にまで及んだ杉植林の無残な姿、
それを救う対策はまったくなされていません。
このような形の日本に生きている私たちは、
自分たちの意志ではないにせよ、
自然破壊の歴史に加担してしまっている、
そのように捉えるべきなのではないでしょうか。
私自身、
前述の杉林を見るたびに胸を痛めてきましたが、
ここに来てついに
「水つくり」の技術と出会いました。
”土を作る水を作る水つくり”として、
日本の山々の木々に
かつての緑の蘇ることを目標に、
今後も技術の発展に尽力していきたいと
思っています。